有岡の戦いで使われた城跡に行ってきました。

さて、今回はいつも千里川土手に行くときに気になる看板へ行ってみました。
いつも門が閉まってるんですよね??行く時間が遅いからでしょうか??
それは「原田城」跡です。



私の知識では織田信長さんも使用したことがあるお城です。
なにか職場の近くにも信長さんが築城した城の城跡が有るらしいのですが
見つけることが出来ず、今回の動画を作るきっかけを作ってくれました。

まずは知っている場所から動画にしてみろって事ですよね??

伊丹側にある「有岡城」を攻めるために信長さんが使用しています。
ただし、この初戦で城攻めをした時に使っただけで
この初戦で負けたので兵糧攻めに切り替えた後は、ちょっと北にある
「池田城」を使用していると思います。

この城を攻めるのに長期間かかっていますが、その間に信長さんは
鹿狩りをするために安土城に戻ったり、本願寺勢と争ったりしているので
文献的にはあまり残っていない合戦になります。

昨年大みそかに動画を上げた「高槻城」の城主・高山右近さんも初めは
信長さんと敵対する側についていたんですが結局、信長さん側についてしまって
それに続いて他の武将さん達も信長さん側に寝返ってしまってます。

石垣などの立派な遺構は残っておらず、土塁などのみ残っているそうです。

さて、反対側のJR伊丹駅側には「有岡城」跡があります。
ここを攻めるために信長さんは布陣しています。

秀吉の遠征を途中で同行するのを辞めて戻ってきてしまったのがよく判りませんが
とにかく、信長さんに勝つことは出来ないと周りに説得されるのにも関わらず
謀反を起こしたという事です。

一度、信長さんに謝りに京都に行こうとするんですが部下に脅されて戻っているようです。

この辺がなんだかなぁって子供心に思ったので、印象に残っているんでしょうね?
とどめが、この大将、合戦中に??「茶器」だけ持って城を抜け出しています。

籠城戦を半年以上していて、待っても待ってこない
毛利勢・本願寺勢に援軍を求めるための城を抜け出し
「茶器」はその援軍を求めるための手土産としても
抜け出すのはよろしく無いのではないでしょうか??

ほんと、子供心には強烈なお話です。

とどめに大将が隠れている城の前で元家臣・家族が処刑されています。
ほんと、この時代凄いなぁって思いますよ。子供心にね。

でも、そういう雑談ばかりしていた日本史の先生は好きでしたね。
だから、こういうお話も覚えているんだと思います。

これからも、あちこち動画のネタを探しながら
子供の頃の記憶を呼び覚ましていこうと考えています。


図説 戦う日本の城最新講座



2022年7月10日 追記

有岡城の岸の砦跡に行ってきました。
有岡城は市街地をも含んだ城であったため
その北の守りを担っていた砦です。

現在は神社になっていました。
高低差を感じる事が出来る景色を見る事が出来
高低差のない所には、土塁が残っていました。
有岡の戦いの時には、降伏の意志も示しましたが
認められず、切腹にて戦いが終わっています。



城主のみが逃げ出してからの戦い
一体どんな思いで戦ったんでしょうね??
しかも、味方の裏切りにもあって
城の内側から攻められるって
どんな気持ちなんでしょうね??

ここの戦いの記事をウィキペディアより抜粋してきます。

有岡城は東西に400m、南北に600mからなる大城で
発掘調査から有岡城の土塁の下から石垣積みが発見され
墓石などの転用石材があり
石垣の先駆ではないかと注目されている。
また日本で最初の天守が備えていたと言われており
城内には北ノ砦、上﨟塚砦、鵯塚砦、岸ノ砦、昆陽口砦などが
築かれており堅城であった。
これに対抗して『信長公記』では

織田軍の布陣の様子を
二重、三重堀をほり、塀、柵を付け、手前々々堅固に
申し付けられ候

としており、有岡城に対する砦のようなものが建てられた。
織田軍は有馬から山崎までの
広範囲に布陣して長期化の様相となってきた。
村重は毛利軍と石山本願寺軍の後詰を期待していたが
増援軍は現れなかった。
食糧も欠乏しつつあり、士気を高めるため
信長の嫡男・織田信忠隊がいる加茂砦に
翌天正7年(1579年)の正月明け夜襲をかけた。
加茂砦には信忠が率いる美濃・近江3千兵が
陣を張っていて、そこに村重自身が指揮をとり
5百兵を北ノ砦より出撃させ3町離れた加茂砦の西方より
火を放って切りかかった。
また東に待ち伏せていた一隊は
逃げてくる敵を押しつつ討ち取っていった。

加茂砦の急襲を知った刀根山砦にいた兵たちが
直ちに信忠隊の救援に駆け付けたが
馬や兵糧を奪われて加茂砦は炎上した後だった。
信忠は無事であったが「荒木村重軍強し」との評判は
京都まで伝わり今様が流行るまでにいたった。
織田軍はその後警戒が厳重になり
信長自身も有岡城に督戦に訪れたりした。
同年4月18日に有岡城方より討って出て
有岡城の城兵3兵が討ち取られたようだが
それ以外の記述はなく9月までの戦闘経緯は不明である。

9月2日夜半、村重は5,6名の側近を引き連れ
夜間に船で猪名川を下って
嫡男村次がいる尼崎城(大物城)へ移っていった。
この時の様子を「忍び有岡の城を出立づ。
共に乾助三郎に重代相伝の葉茶壺を負はせ
阿古とて、常に膝下に召使ひし女を召具しけり」
『陰徳太平記』としている。
『戦国の武将たち』によると
この「阿古」なる人物は村重の側室で
身辺を警護する女武者ではなかったかと解説している。
また「村重に反意あり」としていた細川藤孝は、

君に引く荒木ぞ弓の筈ちがい
居るにいられぬ有岡の城

という歌を詠んで
突然城と家族を捨て茶道具と共に
夜逃げした村重を皮肉った。
絶望的な戦いに命が惜しくなって
逃げ出してしまったという解釈もあるが
「荒木家老の者共さし寄りて村重を諫めて云く
つらつら城中の形勢を見るに
毛利家の援兵も今は頼み少なく
徒らに月日を送り給う故
兵糧甚だ乏しく成り候。
此上し別に行も候はじ
只早く大将尼崎へ御出有りて
中国・西国の諸将を語らはれ候はば
定めて援兵を出さるべきかにて候。
先ず一旦城中を忍びて御出ありて
随分御智謀をめぐらされ候へと
衆口一舌に勧めけり。
村重是を聞きて、実に是もさる事也
妻子諸軍士共のためなれば
いかにもして忍び出で謀ほめぐらすべき候」
『陰徳太平記』と記している。
三木合戦もそうであったが
毛利氏は援軍の約束をしながら
花隈城や尼崎城を通じて兵糧補給をしていたが
1年経っても援兵は来ないので
このままでは城を持ちこたえるのは
不可能と判断し、家臣を使者としても効果はなく
村重自ら安芸に出向き毛利氏と直接交渉しようと
したのではないかと説明している。
『戦国の武将たち』では「茶道具は
毛利への手土産とみることができる」としている。
また、天野忠幸は毛利軍から支援を受ける上で
内陸の有岡城の不利を指摘し
むしろ戦略的判断から海岸沿いの尼崎へと移ったとする。

村重の逃亡は伏せられていたが
信長の間者に知られるところとなり
12日に有岡城の攻城軍の半数を信忠が
総大将として尼崎城へ向かわせた一方
滝川一益は調略を開始した。
上﨟塚砦にいた砦の守将の中西新八郎と
副将の宮脇平四郎に村重の逃亡の事実を使い寝返りを誘い
それに成功した。一益は「進むも滝川、退くも滝川」
といわれた戦術家で、調略の才も秀でていた武将であった。

10月15日亥刻(午後十時頃)
織田軍は有岡城に総攻撃を開始した。
有岡城の城兵はただちに各砦へ配置し臨戦態勢を整えた。
しかし上﨟塚砦に押し寄せた滝川隊は
何の抵抗も受けることなく城内へ侵入した。
これは中西新八郎と宮脇平四郎のみが裏切ったわけではなく
中西らの説得に応じた守備兵力の
足軽大将らが加わったためである。

総構えの有岡城であったが
内側からの攻撃には弱いため
守備兵は討ち取られていき
北ノ砦の渡辺勘太郎、鵯塚砦の野村丹後の両大将は
降伏を申し出たが受け入れられず
切腹した。増援軍の雑賀衆も白兵戦には弱くほぼ全滅した。
総構えの城とは城内に百姓、町人の住居も多数ある。
織田軍は城内を焼き討ちにし郷町から
侍屋敷へ火の手が広がっていった。
非戦闘員は二の丸に逃れたが
そこに織田軍が突入してきたので本丸に後退していった。
本丸は三方を堀で囲まれ
南側は空堀を隔てて二の丸に面しており
織田軍も本丸への侵入は不可能であった。

11月19日、城守をしていた荒木久左衛門は開城を決意
津田信澄が接収部隊を率いて本丸に入城した。
ここに有岡城の戦いの戦闘は終結することになる。

とのことです。





この記事へのコメント

スポンサードリンク