神戸事件の現場に行ってきました 兵庫 三宮

神戸事件が発生した現場を見に行ってきました。
神戸三宮にある三宮神社がその場所です。



単身赴任時代に見に行った生麦事件の現場動画が
ちょっとづつですが、再生され続けているので
これは、関西の事件の場所にも行かないと駄目だよね!!
って、昨年の今頃に行ってきたんですが
全然、再生回数増えませんでした。



これは、生麦事件に比べて、神戸事件の知名度が
低いって事なんでしょうかね??
なんか、残念過ぎました。

徳川道の再生回数も、そういえば、全然伸びてないですね。
これも知名度が低いからですかねぇ??



さて、神戸事件とは。。。。

Wikipediaより
慶応4年1月3日(1868年1月27日)、戊辰戦争が開戦
間も無く、徳川方の尼崎藩(現・兵庫県)を牽制するため
明治新政府は備前藩に摂津西宮(現・西宮市)の警備を命じた。
備前藩では1月5日(1月29日)までに2,000人の兵を出立させ
このうち家老・日置帯刀(へきたてわき)率いる480人(800人説もある)は
大砲を伴って陸路を進んだ。
この際、慶応3年12月7日(1868年1月1日)の兵庫開港(現・神戸港)に伴い
大名行列と外国人の衝突を避けるために
徳川幕府によって作られた迂回路「徳川道」を通らず
西国街道を進んだことが事件の引き金の一つとなってしまう。
1月11日(2月4日)13時過ぎ、備前藩兵の隊列が
神戸三宮神社近くに差しかかった時
付近の建物から出てきたフランス人水兵2人が行列を横切ろうとした。
これは日本側から見ると武家諸法度に定められた「供割」(ともわり)と
呼ばれる非常に無礼な行為で
これを見た第3砲兵隊長・滝善三郎正信が槍を持って制止に入った。
しかし、言葉が通じず、強引に隊列を横切ろうとする水兵に対し
滝が槍で突きかかり軽傷を負わせてしまった。
これに対していったん民家に退いた水兵数人が拳銃を取り出し
それを見た滝が「鉄砲、鉄砲」と叫んだのを発砲命令と受け取った藩兵が発砲
銃撃戦に発展した。
この西国街道沿いにおける小競り合いが
隣接する居留地予定地を実況検分していた欧米諸国公使たちに銃口を向け
数度一斉射撃を加えることに発展する。
弾はほとんどあたらず頭上を飛び越して
居留地の反対側にある旧幕府の兵庫運上所(神戸税関)の屋上に
翻る列国の国旗を穴だらけにした。
銃口を上に向けた威嚇射撃であったのか
殺意はあったが訓練不足により命中しなかったのかに関して
欧米人の証言も一致していない。
なお、備前藩兵の後続軍は前方での騒動に気付き
西国街道の迂回路である徳川道を通過し、事件と関わっていない。

となっております。

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2022年5月11日 追記

神戸事件の責任を取るために
切腹した瀧善三郎さんの供養塔をお参りに行ってきました。




辞世
きのふみし 夢は今更引かへて 神戸が宇良に 名をやあげなむ

ウィキペディアより

天保8年8月21日、岡山藩家老日置氏の家臣
滝助六郎正臣の次男として津高郡金川村に生まれる。
父親は萩野流の砲術に長けた重臣だったが
善三郎が幼いときに亡くなった。
村の神官から漢籍と国風を学ぶ一方
一刀流や砲術を修め、とくに槍術が得意だった。
幼いころより物おじしない性格で
危険を伴う大砲の導火の役を買って出るなど度胸に恵まれていた。
16歳で兄とともに京都に上り、文武の修業をしていたが
母親の病気のために十年ほどで帰郷、尾瀬氏より妻を迎え、一男一女をもうける。

明治元年、日置氏が朝廷より摂津西宮の警護を命じられたため
兄の率いる部隊の大砲方として随行したその途上、神戸事件に遭遇した。

滝善三郎については、神戸事件以外の記録が見当たらない。
しかし、彼の切腹は神戸事件を収拾させたのみならず
世界的にセンセーションを巻き起こすこととなる。
検視に立ち会った当時のイギリス外交官・ミットフォードが滝の切腹の模様を本国に伝え
それをイギリスの新聞『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が銅版画[2]付きで報じたためである。

当時は「切腹」と言っても短刀を腹に当てた時点で介錯が首を落とすとか
さらには短刀の代わりに扇子を使う「扇腹」(おうぎばら)などが一般的だったのだが
(幕末期は本来の作法通りも少なくはなかった)
ミットフォードによると滝善三郎の切腹は古来よりの作法に則った形であった様である。
ミットフォードは日本の作法についてもよく調べており、滝の切腹の模様を生々しい筆致で書き残している。

以上のように記述されていました。

国家間の争いが一人の命で収まるというのは
南都も凄い事だと思います。
そのために命を落とすというのは
戊辰戦争の将軍が大阪から江戸に帰ってしまった時に
責任を取って腹を切った人と同じような感じがします。

今回もしっかりお参りしておきました。

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