京都の清明神社そばの一条戻橋に行ってきました。

京都の清明神社そばの一条戻橋に行ってきました。
いろいろな伝承や物語の場所になっています。
先に記事にした鉄輪の井戸の時にも
ここで鬼に出会うと出てきましたよね。



ウィキペディアからまた抜粋させていただきます。

一条戻橋(いちじょうもどりばし)は
京都市上京区の
堀川に架けられている一条通の橋である。
「戻橋」という名前の由来については
『撰集抄』巻七で
延喜18年(918年)12月に漢学者三善清行の葬列が
この橋を通った際
父の死を聞いて急ぎ帰ってきた
熊野で修行中の子浄蔵が棺にすがって祈ると
清行が雷鳴とともに一時生き返り、父子が抱き合ったという。
『平家物語』剣巻には次のような話がある。
摂津源氏の源頼光の頼光四天王筆頭の渡辺綱が
夜中に戻橋のたもとを通りかかると
美しい女性がおり、夜も更けて恐ろしいので
家まで送ってほしいと頼まれた。
綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと
思いながらも、それを引き受け馬に乗せた。
すると女はたちまち鬼に姿を変え
綱の髪をつかんで愛宕山の方向へ飛んで行った。
綱は鬼の腕を太刀で切り落として逃げることができた。
腕は摂津国渡辺(大阪市中央区)の渡辺綱の屋敷に置かれていたが
綱の義母に化けた鬼が取り戻したとされる。
戻橋は橋占の名所でもあった。
『源平盛衰記』巻十によれば
高倉天皇の中宮建礼門院の出産のときに
その母の二位殿が一条戻橋で橋占を行った。
このとき、12人の童子が手を打ち鳴らしながら橋を渡り
生まれた皇子(後の安徳天皇)の将来を予言する歌を歌ったという。
その童子は、陰陽師・安倍晴明が一条戻橋の下に
隠していた十二神将の化身であろうと書かれている。
安倍晴明は十二神将を式神として使役し家の中に置いていたが
彼の妻がその顔を怖がったので、晴明は十二神将を戻橋の下に置き
必要なときに召喚していたという。
戦国時代には細川晴元により三好長慶の家臣和田新五郎が
ここで鋸挽きにされ、安土桃山時代には豊臣秀吉により
島津歳久と千利休が梟首された。
また秀吉のキリスト教禁教令のもと
1597年には、日本二十六聖人と呼ばれるキリスト教殉教者は
ここで見せしめに耳たぶを切り落とされ、殉教地長崎へと向かわされた。
ただし、利休の首は「聚楽大橋」のたもとに曝されたとの記録もあり
この頃戻り橋の名は聚楽大橋すなわち現在の中立売橋に
移転されていたと考えられている。
徳川和子の入内行列が中立売橋を渡る際
幕府は戻り橋の名を嫌って「万年橋」と改名したが
京童の間には定着しなかった。
嫁入り前の女性や縁談に関わる人々は
嫁が実家に戻って来てはいけないという意味から
この橋に近づかないという慣習がある。
逆に太平洋戦争中、応召兵とその家族は無事に戻ってくるよう願って
この橋に渡りに来ることがあった。
なお、かつて一条戻橋のそばには妓楼があり
「綱」という遊女がいた。無論、一条戻橋で渡辺綱が
美女(実は鬼)と遭遇したという伝説に因んだ源氏名である。
彼女の馴染客のひとりに与謝蕪村がおり
「羽織着て 綱も聞く夜や 河ちどり」という艶冶な句を詠んでいる。

という記述がありました。
与謝野蕪村さんまで出てくるとは思いませんでした。
このようにいろいろな話に出てくる場所なのですが
なにやらひっそりとしていました。

昔の一条戻橋は、清明神社の中に一部部材が残っていましたよ。

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