幕末の事件跡に行ってみました 油小路の変 天満屋騒動 新選組・不動堂村屯所跡

今回はJRの京都駅周辺を散策してきました。
新選組関係の場所になってしまいましたけど
京都で幕末となればしょうがないと
自分に言い聞かせております。



ちょっと、動画とは順番が違うんですが
まずは、天満屋事件の場所です。

ここは京都駅からちょっと大阪側に戻った
北側にありました。

油小路と言えば、油小路の変ですけども
天満屋もここだったんですね。
この場所では、新選組の方の石碑ではなく
新選組に討たれた方の方の名前が
石碑に掘られていました。

ウィキペディアより

天満屋事件(てんまやじけん)は
海援隊士・陸援隊士らが
京都油小路の旅籠・天満屋を襲撃して
紀州藩士三浦休太郎を襲い
新選組と戦った事件である。

陸奥宗光は、当時有力な佐幕論者であった
紀州藩士三浦休太郎が大垣藩士井田五蔵らと
共謀して京都にて不穏な動きをしていること
また坂本龍馬、中岡慎太郎の暗殺(近江屋事件)
の黒幕が、いろは丸沈没事件の際に
多額の弁償金を龍馬に支払わされた恨みを
持つ紀州藩であるとの話を聞き
紀州藩公用人であった三浦休太郎を討つことを
海援隊士・陸援隊士らと計画する。
危険を感じた紀州藩は
会津藩を通して新選組に三浦の警護を依頼した。
天満屋で三浦休太郎の護衛に
新選組の斎藤一、大石鍬次郎ら7名がついた。

慶応3年12月7日(1868年1月1日)
十津川郷士・中井庄五郎や
沢村惣之丞、陸奥宗光、岩村精一郎
大江卓ら海援隊・陸援隊士総勢16名(15名とも)が
三浦休太郎、新選組隊士らが
天満屋2階にて酒宴を行っていたところを襲った。
出会い頭に中井庄五郎が
「三浦氏は其許か」というなり斬りつけ
三浦休太郎は頬・頤を負傷する。
その後、両勢は入り乱れるが
燈火を消し、暗闇での戦闘となる。
斎藤一は後から斬りかかられ
命を落としそうになったが
梅戸勝之進(平隊士)が斎藤を守った。
変を聞きつけた新選組、紀州藩が
援助に向かったものの
着いた頃には陸奥らは素早くその場を引き揚げていた。

この事件で、襲撃側は中井庄五郎が死亡
2、3名が負傷した。
一方の新選組は宮川信吉と舟津釜太郎が死亡
重傷1名、負傷者3名を出し
紀州藩では三浦が傷を負い
三宅精一、関甚之助も軽傷を負った。
(また『南紀徳川史』に佐波某
 三浦の若党藤左衛門及び若輩の仲間某は
 楼下に在りしが、槍傷を受け
 三人共に落命とあり)
また、飫肥藩士で小倉処平の兄である
長倉訒が事件現場に居合わせていた。

京都市下京区油小路正面の跡地には石碑が建てられている。

そして、この石碑から南にちょっと下ると
今度は油小路の変の石碑と説明書きが見えてきます。

古風な京都らしい街並みなんですけど
ここでそういう騒動が起こっていたというのが
今では想像できないですよ。

屋根には鍾馗さんが多く居てはる
いい意味での京都の街並みでした。

ウィキペディアより

油小路事件(あぶらのこうじじけん)は
江戸時代末期(幕末)に起きた新選組と御陵衛士の抗争事件。
新選組最後の内部抗争にあたる。
御陵衛士の伊東甲子太郎、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助が殺害された。

慶応3年3月10日(1867年4月14日)
新選組を離脱し御陵衛士(高台寺党)を結成した伊東甲子太郎が
勤王倒幕運動に勤しみ薩摩藩と通謀して
新選組局長・近藤勇を暗殺しようと企んでいることを
新選組が間諜として潜り込ませていた斎藤一から聞き明らかとなった。
ただし、当時の伊東の書簡は対話を重んじるものばかりで
伊東自身も人を斬った記録が油小路事件以外にはなく
さらには近藤勇を暗殺しようとしたものがないため
近藤暗殺計画自体が存在しなかったとの説もある。
御陵衛士が江戸幕府と敵対していた長州藩に対して
寛大な処分を主張する建白書を提出したことが
長州厳罰論を説く近藤勇を激怒させ
油小路事件につながったものといわれている。
同年11月18日(12月13日)
近藤勇は資金の用立て・国事の相談があるとの口実で
七条の妾宅に伊東を招いて酒宴を張り
帰路に新選組隊士の大石鍬次郎らが待ち伏せて
槍を以って伊東を暗殺した。
伊東は深手であったが一太刀敵に浴びせ
「奸賊ばら」と叫んで、本光寺前で絶命したという。
出動隊士は17名から40~50名まで諸説あるが
出動した可能性のある隊士は
原田左之助、永倉新八、島田魁、大石鍬次郎
岸島芳太郎、横倉甚五郎、宮川信吉、松原幾太郎
相馬主計、三浦恒次郎、芝岡剛三、斎藤一ら。
他の局長附も出動したと思われる。

新選組は油小路七条の辻に伊東の遺骸を放置し
その周りに伏せ、遺体を引き取りにきた同志を
まとめて粛清しようとした。
遺骸を引き取りにきた同志は
藤堂平助・篠原泰之進・鈴木三樹三郎
服部武雄・毛内有之助・加納道之助・富山弥兵衛の7名であった。
この待ち伏せによって、新選組結盟以来の生え抜き隊士で
元八番隊組長を務めた藤堂平助のほかに
服部武雄・毛内有之助の3名が討死した。
偶然、現場を通りかかった桑名藩士・小山正武の談話(史談会速記録)
によると、新選組隊士40~50名が御陵衛士7名を取り囲み
まず藤堂が討たれ、次に毛内が討たれ
最後に服部が奮戦したが及ばず討死したということである。

という事です。

最後には、新選組 不動堂村屯所跡を見に行ってきました。
こちらは現在、ホテルの敷地となっていました。
広い敷地だったんですね!!ただし、使われたのは半年との事。
ちょっと、勿体ないですよねぇ。
本願寺さんから追い出されたようですが
資金などは西本願寺さんから頂いていたようですねぇ。
やはり、暴れん坊だったんでしょうかねぇ??

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