三木城跡を散策してきました

三木城跡を散策してきました。

今年もまた、神戸電鉄さんが
おもてなし切符という企画乗車券を
期間限定で発行してくれました。

数に限りがあるのですが
神鉄一日乗り放題と700円分ぐらいの
食券が付いてきます。

指定されているお店屋さんが少ないとか
営業時間が夕方とかがありますけども
700円分の食事が出来て
乗り放題なのでお得感があるんですよね。

今回は三木方面に行ってみる事にしました。

戦国時代の三木の干殺しで有名な場所です。
いつかは動画にしてみたいと
思っていたのですが
今回チャンスが回ってきました。



三木合戦が正確な名前ですかね??
ウィキペディアから抜粋します。

三木合戦(みきかっせん)は
天正6年3月29日(1578年5月5日)から
天正8年1月17日(1580年2月2日)
にかけて行われた織田氏と別所氏の合戦。
織田家の武将羽柴秀吉が行った
播州征伐のうちの1つで
別所氏は播磨三木城(兵庫県三木市)に篭城した。
この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは
三木の干殺し
(みきのひごろし、-ほしごろし)と呼ばれる。

という事です。

途中に荒木村重さんの謀反などもあり
毛利側からの補給は細々とあったようですが
食糧不足になるのは目に見えていました。

二年に及ぶ籠城戦は凄惨をきわめて
家臣・領民が土壁の藁をも食べだした姿を見て
城主一族の命と引き換えに
家臣・領民を助けるという事で
豊臣秀吉さん達と約束を取り付けて
争いは終了しています。

城主・別所長治さんの辞世の句は

「今はただ うらみもあらじ 諸人の
  いのちにかはる 我身とおもへば 」

です。

この三木城跡を散策してきました。
ただ、史跡や遺跡が多すぎます。
一日では廻れませんよ。
また、気になる場所が多くあるので
行ってみたいと思います。

さすが古戦場ですよ。
あちこち歩き回ってみたいと思います。

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追記

2022年9月22日

更に沿線を散策してきました。
三木駅からちょっと歩いたところにある
お墓を参ってきました。



八幡森史跡公園??にそれはありました。
淡河弾正さんの墓です。

ウィキペディアさんより抜粋します。

淡河城主 淡河弾正忠定範は
三木城主 別所長治の義理の伯父にあたり
別所氏を支援した。
智勇兼備の優れた武将であったとされる。

現神戸市の花隈城、丹上山城と淡河城を繋いで
三木城への兵糧等物資の
補給輸送ルートの役割を担っていた。

天正7年5月、丹上山城は秀吉軍の奇襲を受けて落城した。
羽柴秀吉は、残る淡河城の四方廻りに
天正寺城等付城を築き、取り囲んだ。
そして、秀吉の弟 羽柴秀長の率いる軍勢が
淡河城を攻めたが、淡河弾正は
逆にこれを撃ち破り、敗走させた。
この戦いが、三木合戦における
別所方の唯一の戦勝であった。
その後、自ら淡河城を焼き払った弾正は
三木城に入り、別所長治と運命を共にした。

天正7年9月9日夜半、三木城への兵糧を明石から
陸路で運んできた毛利の援軍と雑賀衆は
三木城包囲網を破るため
秀吉軍の豪将 谷大膳亮衛好の守護する
平田山砦に夜襲をかけた。
同時に、三木城からも別所軍3千が平田山砦を攻撃した。
別所軍随一の智将と云われた
淡河弾正忠定範も、これに参戦した。
敵将 谷大膳を撃ち取るも
平井山本陣の秀吉軍本隊及び廻りの各付城からの
援軍が参戦し、形勢は逆転し、秀吉軍の大勝に終わった。
別所軍は敗走し、この大村平田合戦で
大将格数十名を失うことに。
淡河弾正は、秀吉軍との圧倒的な兵力の差を悲観し
この八幡森付近で自害して果てた。

とのことです。

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