萱野三平さんの旧邸を訪問してきました。
リハビリと思えば良いかなと思ったのですが
駅からは結構な距離でした。
ちょっと、ウィキペディアより抜粋です。
重実さんと記載があるのが三平さんです。
元禄14年3月14日九ツ前(午前11時頃)
主君の浅野長矩が江戸城松之大廊下で
吉良義央に刃傷に及んだ。
浅野家の江戸上屋敷で事件を知った重実は
早水満尭と午後江戸を出発
早駕籠で事件の第一報を赤穂へもたらした。
江戸から赤穂まで普通の旅人なら17日
飛脚で8日かかるところを
僅か4日で走破している。
この道中、3月18日に西国街道沿いの
萱野邸を通過する際
前日に亡くなった自らの母親
小満の葬列に偶然にも出くわし
同行の早水満尭に
「一目母御に会っていけ」と
勧められるも、「御家の一大事」と
涙ながらに振り切り
使いを続けたとする逸話がある。
3月19日未明赤穂到着。
赤穂到着後は大石良雄の義盟に加わる。
4月19日の赤穂城開城後
4月下旬頃、郷里の摂津国萱野村へ戻ったが
江戸へ下ることを願った重実に対して
父の重利から大島家へ仕官するよう
強く勧められる。
重実を浅野家に推挙した大島家は
吉良家との繋がりの深い家柄でもあり
同志との義盟や旧主への忠義と
父への孝行との間で板ばさみになった重実は
元禄15年新稲村吉田家の姉小きんを訪ねた明くる
1月14日未明、主君の月命日を
自分の最期の日と決め
京都の山科の大石良雄に遺書を書き
自刃(切腹)死した。享年28。
重実の墓は、元文5年北河原長好(重実の姉の子)と
萱野重好(重実の兄重道の孫)によって
萱野村に建てられた
(現在は箕面市民病院建設のために
山中から千里川畔に移され
萱野三平旧邸の500mほど
南に位置する萱野家の墓地内にある)
また、大島家を想い
討ち入りに加わらなかった事を讃え
旗本・大島義也が豊中の新福寺に
重実の墓を建てており、法名は妙法陽光洞廓居士
との記述がありました。
早駕籠が一休みした井戸なんかを
動画にしていましたね。
旧邸を見学と言いましても
自害した場所が現存しているだけで
資料が展示してある建物は
立て直したものという事でした。
受付??をされていた方が
いろいろ説明してくれましたよ。
ちょっと、暇そうでしたけどね。
お墓は建物の裏手の田んぼを突っ切ると
千里川が流れているので
川を渡った墓地にありました。
萱野性の入った小さな墓石が横に
ズラッと並んでいました。
きっと、地名になるぐらいの家柄ですから
立派な人たちだったんでしょうね??
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